2008/12/02

The 10000ft Overview of history of the media

送り手と受け手の関係からメディアの歴史をすごく俯瞰した興味深い記事。
小寺信良の現象試考:「一億総クリエイター」という勘違いに至る道のり (1/3) - ITmedia +D LifeStyle via kwout

でも重要なポイントがちょっとだけ触れられているのに結論に結びついていない。
記録メディアは娯楽の送り手と受けての空間と時間を分離した。だがラジオやテレビの放送は当初「生」だったため、空間の分離はもたらしたが時間は分離しなかった。
空間の分離の本質はとは受け手が送り手を見たり聞いたり感じることができるが、送り手には受け手が感じ取れない、というところにある。これは共有する場の分離だ。
それでも生放送の番組中で視聴者の葉書を読んだり、電話で話したりするラジオやテレビ番組が絶えないのはそこに受け手が送り手に感じ捉える感覚を生み出す効果があるからだ。つまりマスメディアである以上情報量の非対称は避けられないが、擬似的に受け手側から送り手側に情報を送り返すことができることによって擬似的に空間を越えて共有される場を作り出しているからだ。
マスメディアには冷たい匂いが付きまとう。人は所詮感覚の動物であり、高度に発達した表現技術は受け手に送り手が思うような感情や衝動を引き起こすことすら可能である。ナチスドイツの宣伝政策などを思い起こせば、そしてそれを一方的に大勢に送りつけることにはどうしても人間に本能的な警戒心を引き起こすだろう。
共有されている場には受け手にも参加している感覚があり、これがコミュニティとしての一体感を醸成する。より原始的な娯楽に近い感覚があるのだ。双方向性を持ち始めたメディアは空間や少々の時間すらも越えて場を形成することを可能にしている。これは実は原始時代からあまり変わっていない人間の共有される場での娯楽への回帰といえるかもしれない。
そう、売り物にはならない。そしてアンコントローラブルだ。そして参加者がコミュニティへの一体感、帰属意識を持っていることは別に良いことばかりではない。ここでは同調圧力、コミュニティ内の序列の生成、そして集団ヒステリーなどコミュニティが持ちうるあらゆる問題がバーチャルに再現されているのだ。メディアの性質によって増幅される部分もある。生まれたばかりの擬似的なコミュニティは現実世界のコミュニティと重層的に存在し、そこからかかる絶え間ない摩擦によるストレスが不安定さに輪をかける側面もある。
小寺氏はプロのメディアクリエイターとしてビジネスの視点でメディアの発展を観察しているのだと思うが、今の新しいメディアのあり方は予測はつかないが納得はいくものだと思う。メディア技術の進展が送り手と受けての関係をどう変えていくのか、実に興味深い。