JTPAのシリコンバレーカンファレンスの募集が始まった。ベイエリアで働いてみたいと思う人にとって、どのくらいの英語力が必要なのか、というのはとても気になるところだと思う。ちょうどumedamochioブログのエントリ 水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。 からはじまって、この本と日本語・英語に関するブログが盛り上がっていたが、kennブログ 英語の世紀に生きる苦悩 がカンファレンスの紹介でうまく締めてくれた。
kennが書いているように仕事に必要な英語力というのは何とかなるものである。というか、何とかできる範囲までがその人の仕事の実力なのである。何とかできる範囲で仕事が勤まらないのならクビになる恐れだってある。仕事上の英語でのコミュニケーション能力の要求レベルはもちろん職種による。多分、弁護士とかコミュニケーションが仕事上の重要な比重を占める職業では言い訳は効かない。ただ、弁護士の仕事だってまちまちだろう。英語力に自信がなくても日本語もできることを武器にしたり、自分の能力に合った仕事上のニッチを見つけられれば、仕事は勤まるし、やっていけるものだ。職業間で相対的にいえばエンジニアに要求される英語能力のハードルはそんなに高くない。コンピュータ用語の多くはだいたいすでに外来語だし、IT系の職場は非ネイティブなエンジニアで溢れている。ただアメリカの職場では引きこもりはいないのと一緒だ。技術上の判断についてディスカッションするときなど、拙くても引いてはいけない局面はいっぱいある。そういうときに常に引いているようではキャリアに前進はあり得ないだろう。技術スキルと同じくコミュニケーションスキルも生涯磨き続けなくてはいけないものだ。別に日本で日本語を使って仕事をしていてもそれは変わらない。仕事上のコミュニケーションスキルというのはいかに適切に仕事上必要な情報をやり取りできるかであって、これは仕事でのコミュニケーションの要求が高まるほどにどの言語であっても意識してスキルアップが必要なものだ。気取った会話ができるかどうかという事ではないのだ。
僕は子供の頃3年ほどアメリカで過ごした、いわゆる「帰国子女」だ。英語力に関しては日本でずっと英語を学んできた人とはスタートラインはずいぶん違うとは思う。10年間アメリカでやってきて、もう日々の仕事上の英語にはほとんど不自由しない。でも仕事でも正直つらい部分もある。特許の書類にはかなりわかりにくい英語が使われてたりする。読みこなすのは結構しんどい。あとは学術論文関係も数学などの高等教育の基礎を英語で叩き込んでいない身には結構しんどいものだ。「二次」は"Quadratic"とかって、辞書引き引きでは時間がかかって仕方がない。こういうのは量をこなしてレベルアップして克服して行くしかない。
ただアメリカで生活して行くって言う事は仕事だけじゃなくある程度の生活を英語で生きて行く、ということだ。kennが言っているようにパーティーなどでの会話では話題が途切れ途切れで表現も仕事では聞かないカジュアルなものが飛び交い、言葉は100%聞き取れていても何の話をしているのかすら分からない、という事は確かにある。まぁ、僕はkennみたいに若いweb起業家の集まるスノッブなパーティーには縁はないのだが。こういうつかみ所のないカジュアルな会話に入って行けるかは純粋に文字通りの「英語」が理解できるかだけでなく、その背後の「文化」を理解しているかどうかだ。「理解」というより、どれだけ「身につけ」ているかだ。
確かに「文化」の境界線の一つとして「言語」は非常に大きいものだが、同じ言語の中でも「文化」は多様だ。そして「文化」は勉強して理解できる部分もあるが、感覚的な部分も含めて多くは自分の人生経験や生活体験に根ざすものだ。僕の職場に去年アメリカに来たばかりのイギリス人がいる。イギリス人なのでもちろん英語はネイティブな訳だがたまに使ってしまう英国風な物言いがアメリカで通じない事に軽いカルチャー・ショックを覚えるそうだ。これはまさに英語圏の中の文化の境界の実例だ。もちろん言語は文化のコンテキスト抜きで存在できない。仕事で使う実用英語のコミュニケーションだって、例えばITテクノロジー・ビジネスの文化的コンテクストの中にあるのだ。ただその文化が多言語にまたがっている部分があるために日本語でそれに接している人間には比較的寄り付きやすいだけに過ぎない。
極論すれば、おじさんが女子高生の会話について行けないのと大差ないのだ。会話の内容が高尚か低俗かなどはあまり関係ない。問題は自分が会話の輪に入れていない事をどれだけ苦痛に感じるか、そしてそれにどう対処して行くのか、だと思う。dankodaiブログは 英語の世紀で日本語を話せるよろこび で会話をクロスカルチャラルなものに持ち込む事を提案している。正直僕もこういう会話は楽しいし、実際ベイエリアのテクノロジー業界はマルチカルチャーの人材で溢れており、こういう会話が弾むことは多々ある。それでもだ、所詮アメリカは巨大モノカルチャーであり、それに属している人たちはクロスカルチャラルな会話に逆に居心地の悪さを感じるのだと思う。そしてアメリカのモノカルチャーに閉じてしまった会話が行われているときに、その文化に属さない人間がそこに溶け込むのにはイバラの道だと思う。いくらアメリカ文化に精通しても日本人に生まれてしまった以上、アメリカ育ちのアメリカ人になる事はできないのだから。でもその会話の輪に入る事にそれだけの価値があるなら、そのレベルまで単純な英語力だけでなく、文化を身に染み付かせないといけない。正直僕はそこまでアメリカ文化に迎合する必要を感じない。そうしなくても仕事を通して自己実現できる事自体がアメリカの良さだと信じているから。
仕事で通じるコミュニケーション能力は磨き続ける必要があるだろう。カジュアルにアメリカ人を気取れるように英語を磨くのは、努力としては共通する部分もあると思うが、基本的に違う目標だと思う。後者は前者ができてから悩めば良いと思う。
2008/11/15
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